「やりたいこと」を信用できなくなった私が、自己理解に戻ってきた話

前回の記事では、私が「やりたいこと」をちゃんと考えて選んできたはずなのに、なぜかいつも、「ここだ」と腑に落ちる場所に辿り着けなかった感覚をなぞりました。

いま振り返ると、それは「やりたいと思ってしまう方向」が、本当に求めているところから少しズレていたのです。

コンパスが壊れた感覚

自分の中を覗き込んでも、心に落ち着く場所に、なかなかたどり着けない。

私の心のコンパスは、どうやら少し、調子を崩しているらしい。

そう気づいた私は、問いの向きを少し変えてみることにしました。

「何をしたいか」ではなく、
そもそも、私はどんな人間なのか。

私は何を考えやすくて、
何に疲れやすくて、
何を心地いいと感じる人なのか。

それがわかれば、なにかヒントが見えるかもしれないと思ったのです。

心地よさを、最初から除外していた

窓から差し込む光と、床に伸びる女性の影

強みやスキルだけでなく、「どんな状態だと、無理をしていないか」を眺めてみたとき、ひとつの違和感に気づきました。

私は、自分が心地よくいられることや、負荷がかかりすぎないことを、はなから検討の枠外に追いやっていたのではないか、と。

そんなのはわがままで、そんなことを言っていたら、世間では通用しない。

苦手は克服するもの。

そう、どこかで信じていました。

その奥には、「素の自分には価値がない」という思い込みがあったように思います。

「気がきかない自分」を責め続けていた頃

私は気心の知れない人との飲み会が苦手でした。

理由は単純で、とても疲れるから。

座る位置。
料理や飲み物の注文、取り分け。

ひとつひとつに「どうするのが正解なんだろう」と考えてしまう。

ビールひとつとっても、

「継ぎ足されたくない人もいるよね」
「飲み切るまで待ったほうがいい?」
「もうビールはいらないかもしれない」
「私が声をかけたら、断れなくて無理させちゃうかな」

そんなことを考えているうちに、場はどんどん流れていく。

結果、私は何もできずにフリーズ。
ただの「気の利かない人」です(苦笑)。

周りにテキパキ動ける人がいると、「すごいなぁ」と思うと同時に、「それに比べて、私は……」と心がチクっとする。

「おつぎしましょうか?」と言えばよかったんだと、あとからは分かりました。

でも、その一言は、当時の私の中には存在していませんでした。

苦手は伸ばすべき? それとも手放すべき?

もちろん、できることを増やそうとする姿勢は大切だと思います。

苦手だからといって投げ出してしまったら、成長しない。

でも、もしそれが、どうしようもなく向いていないことだったとしたら? 人に任せていいことだったら?

どうにかしようとし続けるほど、人は消耗していきます。

問題は、「変えられること」と「変えられないこと」の見極めがとても難しいということ。

そこで、私にとって、大きなヒントになったのがエニアグラムでした。

気質は、骨格みたいなもの

エニアグラムは、人が持っている気質の違いを教えてくれます。

得意なこと、不得意なこと。
やってしまいがちな、うまくいかないパターン。

それは努力不足ではなく、気質の傾向として起こるもの。

気質は、言ってみれば骨格のようなものなので、ある程度は仕方ない。

私は、人と自分を比べて落ち込む癖があります。

これは気質的な特徴で、責めたところで、やめられない。できることは、「またやってるなぁ」と眺めることくらい。

でも、それがわかったとき、私はとても気が楽になりました。

責めるのをやめたら、余白が生まれた

それまでの私は、「比べて落ち込む自分」をさらに責めていました。

比べても仕方ない。
そんなことは頭ではわかっている。

だからこそ、理性が、比べてしまう自分にバツをつける。

でも、気質の癖は、責めてもどうにもならない。それを理解できたことで、「責める」というコマンドが消えました。

暗めの床の上に、白い丸いプレートと小さな植物が置かれている
責めない分、心に余白が生まれる。

「まぁ、しょうがないか」
「そういう不器用な自分なのだもの」

そうやって少し笑えて、手放せる。

すると不思議なことに、ダメ出しからではない、やわらかい前向きさが生まれてきました。

「ここはがんばってみようかな」
「ここまでは無理しなくていいかも」

肩の力が抜けて、「あぁ、もっと自分のまんまでいいのかもしれない」と思えた。

だからこそ、ほんの小さじ一杯分くらいの工夫を考えられるようになった。

無理をしない、でも手放しすぎない。
続けられる努力の塩梅が、ようやく見えてきたのです。

理解することで、地に足がついた

丘の上に立ち、曇り空の景色を見渡す女性の後ろ姿

私はずっと「もっと良い場所へ行こう」としていただけだったのだと思います。

もっと納得できる生き方をしたかった。
心が置いていかれない選択を、したかった。

ただ、そのときの私は、自分がどんな地面なら踏ん張れるのかを、まだ知らなかった。

そんな私に必要だったのは、何を目指すかよりも、「自分はどんなふうに満足する人間なのか」を理解する視点だったのです。

嫌いな自分を変えようとする前に、「なぜ、そうなっているのか」を知る。

苦手なことも、比べて落ち込む癖も、気がきかないと感じてしまう瞬間も。

直すべき欠点と見るのではなく、そうならざるを得なかった背景があるものと眺めてみる。

それだけで、自分との関係性は、ずいぶん変わりました。

自分を理解するための地図として

理想を描くこと自体が、間違っていたわけではありません。ただ、地図を持たずに進もうとしていただけだった。

エニアグラムは、私にとって自分を評価するためのものではありません。

今の自分を、よくも悪くも、正確に知るためのもの。

無理に跳ばなくていい場所と、少し背伸びしても大丈夫な場所を見分けるための地図のようなものです。

自分を変えるためではなく、自分を理解するために。

私は今も、そんなふうに、理想に向かうための足元を確かめながら、自分を理解する練習を続けています。