「やりたいこと」が信用できなくなった私の話

野原に向かって地図を広げる女性の画像

やりたいことは、ちゃんと考えてきた。

それなりに努力もしてきた。

それなのに、あとから振り返ると、「あれ?なんか違ったな」と感じる選択が、いくつもある。

もしそれが、やりたいことが分からなかったのではなく、やりたいと思ってしまう方向が、どこかズレていたとしたら。

ちゃんと考えて選んだはずなのに、ズレている

ちゃんと選んだはずだった。
ちゃんとやりたいと思ったはずだった。

その瞬間は、これを目指したいと本気で思っていた。

なのに、しばらく取り組んでいると、だんだん違和感が出てくる。

努力し続けるうちに違和感が大きくなってくる。

何度か「あれ?」を繰り返すうちに、どうやら私の中の「やりたい」は、「そう、ここに来たかったんだ」と腑に落ちる場所にはつながっていないことが分かってきた。

なぜ私は「努力できる方向」を選び続けてしまったのか

私は、ストレスなくできることと、努力すればできることの区別を、ほとんどしてこなかった。

というより、
努力して強化できる自分でありたいと思っていたのだと思う。

頑張れること。
踏ん張れること。
認められること。
簡単じゃないことに挑んで、形にできること。

そういう自分は、きっと価値がある。
少なくとも、そう信じたかった。

やっかいだったのは、それは外から内に輸入した理想であり、「苦手は克服すべき」という前提から出てきていたのに、それに気づかず、自分の内側から自然に湧いてきた願いのように感じていたことだった。

だから、判断がつかなかった。

これは、本当にやりたいことなのか。
それとも、やれる自分でいたいという願いなのか。

どちらも「私の中から出てきたもの」には違いなくて、当時の私には、その二つを見分ける術がなかった。

結果として、私は何度か、「やりたいこと」に本気で取り組んだ。

ちゃんと考えて選んだし、思いもあったし、本気でやったし、途中で投げ出したわけでもない。

でも、あるところで必ず、同じ感覚にぶつかる。

あれ?
ここじゃない。

乗り越えられない壁にぶつかったわけではない。何か決定的に傷ついたわけでもない。

ただ、「そう、ここに来たかったんだ」という納得が、どうしても訪れない。

目指して歩いてきたのに、「ここだ」と思えない。

自分で決めたはずの目標なのに、そこに向かって進めば進むほど、微妙にズレている感じが積み重なっていく。

そうして、私は何度か、努力の方向性を進路変更している。

自分の人生の行き先は、本来いちばん自分が分かっているはずなのに。

その「自分」から出てきたはずの目標が、なぜか、どこにも辿り着かない。

地図を見て進んでいるのに、何度歩いても、目的地に近づいている気がしない。

——これ、どうしようもなくない?

その問いだけが、しばらく残った。

そして私は、ようやく「やりたいこと」ではない別の手がかりを探し始めた。